宗像大社の歴史を辿る―神宿る島から続く1600年の物語

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福岡県宗像市に鎮座する宗像大社。世界遺産にも登録されたこの神社は、日本神話の時代から続く壮大な歴史を持っています。沖ノ島、大島、本土の三宮で宗像三女神を祀り、古代から海上交通の要所として朝廷にも重んじられてきました。今回は、宗像大社がどのようにして生まれ、どう受け継がれてきたのか、その歴史の深層に迫ります。知れば知るほど引き込まれる、宗像大社の物語をご紹介しましょう。

日本神話に登場する宗像三女神の誕生

宗像大社の歴史を語る上で欠かせないのが、宗像三女神の誕生です。『古事記』や『日本書紀』といった日本最古の歴史書には、天照大神と素戔嗚命が「誓約(うけい)」を交わした際、天照大神が素戔嗚命の剣を噛み砕いて吹き出した息から三柱の女神が生まれたと記されています。その三女神とは、田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)で、天照大神は三女神に「歴代天皇をお助けせよ」という神勅を授け、三女神は玄界灘に浮かぶ宗像の地に降臨したとされます。

興味深いのは、沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、本土の辺津宮がほぼ一直線に並んでいることです。朝鮮半島へと向かう航路上に位置するこの配置は、偶然とは思えない戦略的な意味を感じさせます。

古代の人々にとって、海を渡ることは命がけでした。だからこそ、航海の安全を守る神々への信仰が生まれたのでしょう。この三宮の位置関係を知ったときは鳥肌が立ちました。

古代の海を支配した宗像氏―航海と祭祀の物語

宗像大社の歴史を支えてきたのが、地元の豪族・宗像氏です。彼らは卓越した航海術を持ち、玄界灘という荒海を自在に操って大陸との交易を担っていました。4世紀後半になると、大和朝廷が朝鮮半島の百済と本格的な交流を始め、沖ノ島では国家祭祀が行われるようになります。

国家祭祀というのは、天皇の使者である勅使が現地に赴いて執り行う、いわば国を挙げての神事です。『日本書紀』には465年に雄略天皇の勅使が宗像に派遣された記録があり、その後も繰り返し勅使が訪れています。沖ノ島からは銅鏡、勾玉、金製指輪など8万点以上の奉献品が出土しており、その規模の大きさから「海の正倉院」と呼ばれるほどです。これだけの宝物が残されていたのは、島全体が御神体として厳格な禁忌で守られてきたからなのです。

ちなみに、宗像氏の娘・尼子娘は天武天皇の后となり、生まれた高市皇子は壬申の乱で活躍して太政大臣にまで昇りました。朝廷と宗像氏の結びつきの強さがうかがえます。645年の大化の改新後には、宗像は九州で唯一「神郡」に指定され、特別な待遇を受けるようになります。全国でわずか7社しか認められなかった神郡に選ばれたことからも、宗像大社の重要性が分かるでしょう。

三宮の成立と信仰の継承―中世から近世へ

7世紀後半になると、沖ノ島だけでなく大島や本土でも祭祀が行われるようになり、三宮を総称して「宗像大社」と呼ぶようになりました。8世紀に成立した『古事記』『日本書紀』には、宗像氏が沖津宮・中津宮・辺津宮で宗像三女神を祀っていると明記されています。平安時代に遣唐使が廃止されると、沖ノ島での大規模な国家祭祀は終わりを迎えます。それでも、宗像大社への信仰が途絶えることはありませんでした。宗像氏は大宮司家として神社を守り続け、中世には有力な武士団としても活躍します。

ただ、戦国時代は大変な時期でした。大内氏、大友氏、少弐氏といった大名たちの争いに巻き込まれ、宗像大社も何度も焼き討ちに遭っています。1557年にも焼失していますが、1578年に大宮司の宗像氏貞が本殿を再建し、現在の辺津宮本殿はこの時のもので、国の重要文化財に指定されています。

安土桃山時代初期の建築様式を色濃く残す貴重な建物です。それと、拝殿は1590年に小早川隆景によって再建されたものです。戦乱の世にあっても、宗像大社は武将たちから篤く信仰されていたことが分かります。江戸時代に入ると、福岡藩主の黒田氏が社殿の造営や修理、社領の寄進を度々行い、宗像大社を支えました。

出光佐三が救った荒廃からの再興

明治時代に入ると、宗像大社は「宗像神社」として1871年に国幣中社、翌年には官幣中社に昇格し、1901年には最高位の官幣大社となります。でも、第二次世界大戦後、境内は荒廃していました。

ここで登場するのが、出光興産の創業者・出光佐三です。宗像市赤間出身の佐三は、幼い頃から宗像大社を深く信仰していました。1937年に参拝した際、神社の荒れ果てた姿に心を痛め、1942年に「宗像神社復興期成会」を結成して初代会長に就任します。佐三の功績で特筆すべきは、1954年から1971年にかけて3次にわたって行われた沖ノ島学術調査でしょう。この調査により、沖ノ島の考古学的価値が明らかになり、『日本書紀』の記述が実地で裏付けられました。

約30年間、数十億円もの私財を投じて宗像大社の再建に尽力した佐三、辺津宮の本殿や拝殿の修復も彼の寄進によるものです。佐三をモデルにした小説『海賊とよばれた男』では、敗戦時に社内に分祀した宗像神社で日本の未来を祈る姿が描かれています。佐三にとって宗像大社は、伊勢神宮が皇室の祖先なら、宗像大社は国民の祖先という存在だったのです。ここまで深い信仰心を持ち続けた佐三の生き方には頭が下がります。

世界遺産登録と現代に続く信仰

2009年、宗像大社はユネスコ世界文化遺産の暫定リストに記載され、2017年7月、ついに「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」として世界遺産に登録されました。沖ノ島での古代祭祀、三宮の成立、そして現代まで続く信仰の継承です。この一連の流れが世界的に評価されたわけです。

今でも沖ノ島は一般の立ち入りが禁止されており、神職一名が約10日交代で常駐して毎日祭祀を行っています。島に上がる前には禊を済ませなければならず、女人禁制という古代からの禁忌も守られています。島から一木一草一石たりとも持ち出してはならないという厳しいルールが、沖ノ島の神聖さを今に伝えているのです。

毎年10月1日から3日にかけて行われる秋季大祭「みあれ祭」は、沖津宮と中津宮の御神璽を船で辺津宮まで運び、三女神が年に一度再会する壮大な海上神幸です。約200隻もの漁船が大漁旗をなびかせて玄界灘を進む光景は圧巻です。鎌倉時代から700年以上続くこの祭りには、全国から多くの観光客が訪れます。宗像大社は今も「交通安全の神様」として福岡県内で篤く信仰されており、新車を買うと宗像大社で御祓いを受ける人が多いそうです。宗像大社のステッカーを貼った車もよく見かけますが、古代から現代まで、形を変えながらも信仰が途切れることなく続いているのは、本当に驚くべきことではないでしょうか。

1600年を超えて受け継がれる信仰の形

宗像大社の歴史は、日本神話に始まり、古代国家の海上交通を支え、戦乱の世を乗り越え、近代の荒廃から再興され、そして世界遺産として未来へと繋がっています。沖ノ島での古代祭祀、宗像氏の航海術、三宮の成立、出光佐三の再興、そして現代の「みあれ祭」。すべてが一本の糸で繋がり、今も息づいているのです。宗像大社を訪れる際は、ぜひこの壮大な歴史に思いを馳せてみてください。神宿る島から続く1600年の物語が、きっとあなたの心に響くはずです。

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