毎年7月、博多の街を熱狂の渦に巻き込む博多祇園山笠。その起源は780年以上も前、鎌倉時代にまで遡ると言われています。疫病に苦しむ人々を救おうとした一人の僧侶の行動が、やがて福岡を代表する壮大な祭りへと発展していった、その歴史を紐解くと、博多の人々の信仰心や団結力、そして時代の荒波を乗り越えてきた逞しさが見えてきます。今回は、博多祇園山笠がどのようにして今の形になったのか、その変遷と背景を深掘りしていきます。
始まりは鎌倉時代―聖一国師の祈りから生まれた祭り
博多祇園山笠の歴史は諸説ありますが、最も有力とされるのが鎌倉時代の1241年に遡る説です。当時、博多では疫病が大流行し、多くの人々が苦しんでいました。そんな中、承天寺の開祖である聖一国師(円爾)が、施餓鬼棚という木製の台に乗って祈祷水を撒きながら博多の街を清めて回ったのが起源とされています。
施餓鬼棚というのは、疫病の病魔を鎮めるためにお供え物を置く棚のことです。これが後の山笠の原型になったと考えられています。780年以上前の出来事ですから確かな記録が少なくて、伝承や断片的な文献から推測されている部分も多いのですが、博多祇園山笠振興会もこの説を公式見解としています。
ちなみに、別の説として永享四年(1432年)を起源とするものもあります。現存する最古の史料である『九州軍記』にその記述が見られるため、文献上はこちらが初見ということになるわけです。いずれにしても室町時代以前から何らかの形で山笠行事が行われていたことは間違いないようです。疫病退散を願う神事という性格は、今も櫛田神社に奉納される祇園信仰と結びついて受け継がれています。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る祇園信仰は、もともと京都の八坂神社から全国に広がったものです。博多でもその信仰が根付き、山笠という独自の形で発展していったわけです。
豊臣秀吉の町割りが作った「流」という仕組み
博多祇園山笠を語る上で欠かせないのが、「流(ながれ)」という組織です。現在、千代流・恵比須流・土居流・大黒流・東流・中洲流・西流の七流が祭りの中心を担っていますが、この流の起源は戦国時代まで遡ります。
当時の博多は、大陸貿易の拠点として栄えていた一方で、戦国大名たちの争奪戦の舞台にもなっていました。特に1576年、島津義久が博多から撤退する際に街全体に火を放ち、博多は焼け野原になりました。その後、天下統一を進めていた豊臣秀吉が博多の復興を命じます。そして1587年に「太閤町割り」と呼ばれる大規模な区画整理を実施しました。この町割りで、博多の街は碁盤の目のように整備され、東西に3本、南北に4本の幹線道路が走る形になりました。
そしてその区画ごとに「流」という単位が生まれ、これが現在の山笠のグループ単位の原型となったのです。各流には当番町があり、年寄・中年・若手という年齢組織が組み込まれて、町組織と祭礼組織が一体化して運営される仕組みが確立されていきました。
面白いことに、東流だけは当番町を持たず流全体で運営しているという点です。これは他の流とは異なる独自のスタイルで、博多祇園山笠の多様性を象徴しているとも言えます。
江戸時代―16メートルの巨大山笠が街を練り歩いた
江戸時代に入ると、山笠はさらに豪華絢爛なものへと発展していきます。当初は施餓鬼棚のような素朴なものだったのが、次第に装飾が施され、高さもどんどん増していきました。幕末から明治初期には、なんと高さ15〜16メートルにも達する巨大な山笠が博多の街を練り歩いていたそうです。16メートルといえば5階建てのビルに匹敵する高さです。想像できますか?それを人力で動かしていたわけですから、当時の博多の男たちの気概が伺えます。
この時代の山笠は、今のような「舁き山」と「飾り山」の区別はなく、飾り立てられた巨大な山笠をそのまま担いで移動していました。
この頃から「追い山」のスタイルも確立されていきます。一説によれば、1687年(貞享4年)に土居流が東長寺で休憩中に、石堂流(現在の恵比須流)に追い越される出来事が起き、そこから2つの流が競い合うようになったのが始まりのようです。これが評判を呼び、スピードを競う「追い山」という形式が生まれたと言われています。ただ、この時代の史料は断片的なものが多く、実際の祭りの様子を詳細に伝えるものが少ないのですが、江戸時代の絵図や記録から、当時すでに華やかな祭礼として確立されていたことは確かなようです。
近代化の波―電線の登場が山笠の形を変えた
明治時代に入ると、博多祇園山笠は大きな転機を迎えます。近代化の象徴である電線の登場です。
1883年(明治16年)、博多の街に電信線が架設されました。高さ16メートルもある山笠が電線を切ってしまう事故が相次ぎ、1890年(明治23年)には低い山笠が製作されることになりました。でもこれは「団飯山(にぎりめしやま)」と揶揄され、評判は散々だったそうです。関係者は山笠の高さを取り戻そうと奔走し、一時的に電柱を高くするなどの対策も取られました。
ところが1896年(明治29年)、博多電灯が設立され、翌年には電灯線や電話線が街中に張り巡らされることになり、もはや高い山笠を動かすことは不可能になりました。
そこで考え出されたのが、観賞用の「飾り山」と運行用の「舁き山」を分けるという方法です。飾り山は10〜15メートルの高さで豪華に飾り立て、舁き山は3メートル程度に抑えて実際に担いで走るのです。この形式が明治30年代に確立され、現在まで続いているわけです。それにしても当時の関係者の葛藤は相当なものだったと思います。伝統を守りたいけれど、時代の流れには逆らえません。その中で生み出された知恵が、今の博多祇園山笠の形を作ったのです。
1910年(明治43年)には市内に路面電車が開通し、架線より高い山笠の運行は完全に不可能になりました。飾り山と舁き山の分化は決定的なものとなりました。ちなみに現在、舁き山の高さは4.5メートルまで緩和されています。1979年(昭和54年)に路面電車が全廃されたことで、少しずつ高さ制限が緩められたのです。
戦争と復興―途絶えた山笠、そして再び
博多祇園山笠の長い歴史の中で、何度か中断を余儀なくされた時期があります。最も大きな試練が、太平洋戦争です。1945年(昭和20年)6月19日、福岡大空襲により博多は壊滅的な被害を受けました。この年、博多祇園山笠は中止になりました。戦後しばらくは復興に追われ、祭りどころではない状況が続きました。
それでも博多の人々は諦めず、少しずつ準備を進め、戦後間もなく山笠を再開させます。その後、1950年代には再び活気を取り戻しますが、新たな試練が待っていました。1960年代に入ると炭鉱の閉山が相次ぎ、若者が県外へ流出するようになります。舁き手不足が深刻化し、1963年(昭和38年)には再び山笠が中止されてしまいます。
状況が変わったのは1970年代。1971年(昭和46年)、飯塚青年会議所などの尽力により「市民祭飯塚山笠」として復活を果たします。翌1972年には集中豪雨に見舞われ、祭りを中止して災害対策に切り替えるという判断もなされます。このエピソードは、山笠が単なる娯楽ではなく、地域の絆を象徴する存在であることを示しています。その後、高校生や企業の参加が増え、1980年代には外国人も参加するようになりました。博多祇園山笠は、伝統を守りながらも新しい形で進化を続けてきたのです。
現代の山笠―国の重要文化財、そしてユネスコへ
現代に至るまで、博多祇園山笠はさらなる発展を遂げています。1979年、「博多祇園山笠行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。さらに2016年12月1日には、日本全国33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産にも登録されました。これは博多にとって大きな誇りであり、世界に認められた証でもあります。
現在の博多祇園山笠は、7月1日から15日までの2週間にわたって開催されます。期間中、市内14カ所に飾り山が設置され、七つの流が舁き山を奉納します。最終日の15日早朝4時59分、「追い山」がスタートし、約5キロメートルのコースを疾走します。この「4時59分」という中途半端な時間設定には理由があり、これは櫛田神社で「祝いめでた」という博多の祝い唄を歌う時間1分を考慮しての時間で、細かいところまで伝統が生きているのです。
近年では新型コロナウイルスの影響で、2020年と2021年は舁き山の行事が中止になりました。それでも2022年には3年ぶりに復活し、2023年以降も開催されています。時代がどんなに変わっても、博多の人々は山笠を守り続けているのです。
山笠が象徴するもの―博多の魂と誇り
博多祇園山笠の歴史を辿ってきましたが、この祭りが780年以上も続いてきた理由は何でしょうか。おそらく、単なる伝統行事以上の意味を持っているからだと思います。
山笠は博多の人々にとって、アイデンティティそのものです。「山笠があるけん博多たい」という言葉があるほど、祭りと地域が一体化しています。流という組織は単なる祭りの単位ではなく、近隣住民の絆を深める場でもあり、年齢組織を通じて世代を超えた交流が生まれます。
一方、山笠は女人禁制という厳しいしきたりを守り続けてきました。これには賛否両論あるでしょうが、伝統を重んじる姿勢の表れとも言えます。近年では「不浄の者立入るべからず」という立て札が「関係者以外立入禁止」に変更されるなど、時代に合わせた配慮も見られます。
現代社会で780年前の形式をそのまま守り続けるのは簡単なことではありません。電線、戦争、人口減少、価値観の変化―さまざまな困難がありました。それでも博多の人々は、時代に合わせて柔軟に変化しながら、山笠の本質を守り続けてきたのです。その姿勢こそが、博多祇園山笠が今も愛され続ける理由なのかもしれません。
780年の歴史が物語る、博多の底力
博多祇園山笠の歴史は、疫病退散を願う祈りから始まり、戦国時代の町割り、江戸時代の発展、近代化の試練、戦争による中断、そして現代の復興へと続いています。その過程で形を変えながらも、博多の人々は決して山笠を手放しませんでした。780年という途方もない時間の中で培われた伝統と、時代に合わせて変化する柔軟性。この両立こそが、博多祇園山笠が今も多くの人を魅了する理由なのです。毎年7月、博多の街が熱狂に包まれる時、そこには長い歴史の重みと、未来へ繋がる希望が交錯しています。

