福岡と博多、この二つの名前をめぐって125年前に大論争が起きたって知ってますか?実は「博多駅」があるのに「福岡市」という、ちょっと不思議な地名事情の背景には、1000年以上にわたる歴史のドラマがあるんです。金印が発見された奴国の時代から、元寇、太閤町割り、そして近代都市への発展まで。この街が歩んできた道のりを辿ると、なぜ今も「福岡」と「博多」が併存しているのか、その理由が見えてきます。
奴国から博多へ―海がもたらした繁栄の始まり
西暦57年、後漢の皇帝から金印を授かった「奴国」。この小さな印鑑が物語るのは、すでにこの時代から博多湾沿岸が大陸との交流拠点だったという事実です。志賀島で発見されたあの有名な金印、実物を見たことありますか?たった2.34センチ四方の小さな印。でも日本の歴史を語る上で欠かせない存在なんですよね。
その後、奴は「那の津」と呼ばれるようになり、飛鳥・奈良時代には鴻臚館という外交施設が置かれます。遣唐使が出発する港でもあり、海外からの使節を迎える迎賓館でもあった。要するに、博多は日本の玄関口だったわけです。
平安時代末期になると日宋貿易で大いに栄え、中国から移り住んだ人々による「大唐街」まで形成されました。
うどん、そば、お茶、饅頭―これらが日本に伝わったのも博多経由なんです。承天寺の聖一国師が宋から持ち帰った技術が、今の食文化の基礎になっている。正直、博多がなければ今の和食文化も違ったものになっていたかもしれません。ちなみに承天寺には「饂飩蕎麦発祥之地」という石碑が実際に建ってるんですよ。
元寇と再生―焼け野原から立ち上がった商人たち
1274年、文永の役。博多の街は蒙古軍の襲来によって壊滅的な被害を受けます。ただ面白いのはここからなんです。焼け野原になった博多は、元寇防塁という石垣で守られながら、商人たちの力で見事に復興を遂げる。
戦国時代に入ると、また話が変わってきます。博多は豊かすぎたんですね。だから戦国武将たちの争奪戦に巻き込まれ、再び荒廃してしまう。そこに登場するのが豊臣秀吉です。
1587年、九州平定を果たした秀吉は、博多の復興に着手します。いわゆる「太閤町割り」ですね。黒田官兵衛や石田三成が実務を担当し、博多の豪商たちも協力して、碁盤の目のような整然とした街並みを作り上げました。
この時、博多は7つの「流」という地域組織に分けられたんですが、これが今も博多祇園山笠の組織として残ってるんですよ。歴史の連続性って、こういうところに現れるんだなと感じます。
二つの街の誕生―福岡と博多の微妙な関係
1601年、黒田長政が筑前国の領主になります。長政は父・官兵衛とともに博多復興に尽力した人物ですが、彼が選んだ居城の地は博多ではなく、西側の福崎という場所でした。
ここで長政は面白いことをします。自分の祖先ゆかりの地である備前福岡(今の岡山県)から名前を取って、この新しい城下町を「福岡」と名付けたんです。つまり、福岡という地名は江戸時代に突然現れた、比較的新しい名前なんですよね。
こうして那珂川を挟んで、東に商人の街・博多、西に武士の街・福岡という二つの顔を持つ双子都市が誕生しました。武家地が広がる福岡に対して、博多は町家と寺社が密集する商業都市です。文化も気質も違う二つの街が、川一本で隔てられながら共存していたわけですね。
あと中洲は、この二つの街を行き来できる唯一の「自由地帯」だったそうで。だから今も歓楽街として栄えてるのかな、なんて勝手に想像しちゃいます。
わずか1票の差―市名をめぐる大論争
明治時代になって廃藩置県が行われ、福岡県が誕生します。そして1889年、市制施行。ここで問題が起きるんです。新しい市の名前を「福岡市」にするか「博多市」にするか、で。
当時の人口は博多が約25,000人、福岡が約20,000人。議員数も博多派が17名、福岡派が13名で、どう見ても博多が有利に見えました。
ところが投票当日、博多派の3名が欠席。トイレに軟禁されたという噂もあるらしいんですが、真偽は不明です。結果は13対13の同数。最後は議長が議長席を降りて一議員として投票し、「福岡」に1票。これで決まったんです、わずか1票差で。想像できますか?
とはいえ面白いのはその後の「落としどころ」です。市名は福岡に譲ったけど、鉄道の駅名は博多にしようと。なので今でも「福岡市の博多駅」という、初めて聞く人には混乱しそうな状況になってるわけですね。
この妥協案、日本人らしいというか、両方の誇りを守ろうとした当時の人々の知恵を感じます。おかげで外国人観光客が富山県の福岡駅で降りちゃう事故も起きてるらしいですけど。
現代に息づく二つのアイデンティティ
今の福岡市は博多区と中央区に分かれていて、それぞれが昔の「博多」と「福岡」にだいたい対応しています。地元の人に聞くと、「博多っ子」と「福岡っ子」では微妙に気質が違うなんて話も。
博多織、博多人形、博多ラーメン、博多弁、博多祇園山笠―「博多」の名前は今も商品や文化に生き続けています。一方で行政区分は「福岡市」。このねじれが、かえってこの街の魅力になってる気がするんですよね。
考えてみれば、一つの街に二つの歴史とアイデンティティが共存してるって、すごく豊かなことだと思うんです。商人気質と武士気質、開放性と伝統、新しいものと古いもの。相反するものが混ざり合って、今の福岡・博多の独特な文化を作り上げているんでしょう。
そういえば、博多旧市街を歩いてると、ビルの谷間に突然現れる古い寺社や、太閤町割りの名残を感じさせる碁盤目状の道に出会います。歴史が地層のように積み重なってる感じ、あれが博多の面白さなんですよね。
二つの名前が語る、重層的な歴史の魅力
博多の成り立ちを辿ると、単なる地名の話ではなく、1000年以上にわたる人々の営みが見えてきます。大陸との交流拠点として始まり、戦火に何度も見舞われながら復興を遂げ、江戸時代には二つの顔を持つ都市として発展した。そして明治の大論争を経て、「福岡市」という名前と「博多駅」という名前が共存する、ちょっと不思議な街になりました。
ただこの複雑さこそが、福岡・博多の魅力なのかもしれません。あなたも博多を訪れたら、那珂川を渡りながら「こっちが博多で、あっちが福岡」なんて想像してみてください。きっと街の見え方が変わるはずです。

