柳川川下りに息づく水の文化─なぜこの町は掘割と共に生きるのか

出かける福岡

「水郷」として知られる福岡県柳川市。この町を訪れると、まず目に飛び込んでくるのが縦横に巡る掘割の風景です。船頭さんが竿一本で舟を操り、柳の並木や古い石橋の下をゆっくりと進んでいく「川下りの風景」こそが、この土地が数百年かけて育んできた「水との共生」という文化そのものなのです。今回は、なぜ柳川にこれほど掘割が張り巡らされ、川下りが今も人々に愛され続けているのか、その背景を掘り下げてみます。

掘割は「作られた川」─生き残るための知恵だった

柳川を初めて訪れた人は、「どうしてこんなに川が多いのだろう」と不思議に思うかもしれません。実はこれらは自然の川ではなく、人の手で掘られた水路なのです。柳川の土地はもともと有明海の一部で、弥生時代から少しずつ干拓が進められ、陸地が形成されてきました。

そのため問題も生じました。低地で水はけが悪く、少し雨が降るとすぐに浸水してしまうのです。そこで先人たちが考え出したのが、土を掘って水を引き、雨水を一時的に溜めておく「掘割」という仕組みです。

この水路が後に農業用水や生活用水、防火用水としても機能し、さらに物資を運ぶ水運の道にもなりました。総延長は約470キロメートルにも及び、町全体が水路で結ばれています。江戸時代、柳川藩主の立花家がこの掘割を整備し、城を守る堀としても活用しました。結果的に柳川の掘割の存在は「防災、生活、交通、防衛」すべてを兼ね備えた生き残るための知恵の結晶だったわけです。

もともとは生活の足だった川下り

今でこそ川下りは観光の目玉ですが、もともとは日常の移動手段でした。掘割に小舟を浮かべて隣町へ行く、買い物に出る、畑へ向かうというように、柳川の人々にとって、舟は生活に必要な身近な存在だったんです。

観光としての川下りが始まったのは意外に最近のことで、昭和30年(1955年)頃でした。映画『からたちの花』で柳川の水辺風景が注目され、「これは観光資源になる」と商工会議所が動き出しました。それまでは「川遊び」として地元民が楽しむ程度だったのですが、専用の遊覧船を作り、定期運航を始めたことで、全国から観光客が訪れるようになりました。

ちなみに、川下りのルートは江戸時代の城堀をそのまま辿っています。内堀コースと外堀コースがあって、約60〜70分かけてゆっくり進みます。船頭さんの巧みな竿さばきと、土地の歴史を語る話、時には白秋の詩の朗読や民謡も聞けます。単なる移動じゃなくて、柳川という土地の記憶を五感を通して感じることができる旅なのです。

船頭さんの「語り」が紡ぐ、もうひとつの柳川

川下りの魅力は風景だけじゃありません。むしろ船頭さんの「語り」こそが、この体験を特別なものにしている気がします。船頭さんは柳川の歴史や文化の語り部として「掘割がどうやって作られたか、立花家の治世、北原白秋の生家、地元の祭り、さげもんの風習」などを語り、舟がゆっくり進む間、まるで時代を遡るように物語を紡いでいきます。

船頭さんは、お客さんの反応を見ながら話題を変えたり、質問に答えたりします。けっして一方通行じゃなくて、双方向のコミュニケーションを大切にします。ある女性船頭さんのインタビュー記事を読んだのですが、彼女は「お客さまの目線の先を読んで、先回りして説明する」と言っていました。船頭さんには竿さばきだけじゃなく、観察力、コミュニケーション能力、知識の深さ、積み重ねてきた経験が求められるのですね。柳川の川下りが単なる「舟に乗る」だけの体験じゃなく、文化体験として成立しているのは、船頭さんたちの技と心があってこそだと思います。

掘割が育んだ「水郷文化」の広がり

柳川の川下りを語るとき、水辺の風景だけを切り取るのはもったいない気がします。この町には、掘割があるからこそ育まれた文化が層をなして存在しています。

まず、北原白秋。彼の詩集『思ひ出』には、少年時代に遊んだ掘割の情景が繰り返し登場します。水面に映る柳、石橋、舟遊び。白秋文学の原風景は、この掘割なしには語れません。彼の生家は今も川沿いに残っていて、記念館として公開されています。

それから「御花(おはな)」という、今は料亭旅館として営業してい「柳川藩主立花家の別邸」ですが、国指定名勝の庭園「松濤園」は掘割の水を引き込んで作られています。樹齢200年の松、池に映る月など水があるからこその美しさです。

柳川名物「うなぎのせいろ蒸し」も忘れるわけにはいきません。有明海と筑後平野という豊かな水の恵みがあってこその料理です。甘辛いタレをからめたご飯の上にうなぎをのせて、せいろで蒸し上げる。他の地域ではあまり見ないスタイルですが、川下りとセットで楽しむのが地元流の過ごし方だそうです。

掘割という「水のインフラ」が、文学、庭園、食文化、祭り、人々の暮らし方などすべてに影響を与えています。川下りは、その文化の入口なのです。

今も続く川下り文化の秘密

昭和の観光ブームが去った後、地方の観光地は厳しい状況に置かれたところもあります。柳川も例外ではありません。とはいえ、川下りが今も続いているのは、単なる「昔ながらの観光」ではなく、常にアップデートされてきたからだと思います。

たとえば、冬季限定の「こたつ船」です。寒い時期でも暖かく楽しめるように工夫されています。夏の「納涼船」で夕涼みもそうです。季節ごとに違う楽しみ方ができるんです。それから多言語対応もされています。近年は訪日観光客向けに、英語・中国語・韓国語の音声ガイドも導入されました。西鉄電車に乗りながら柳川の歴史を学べる音声コンテンツもあって、移動時間が「物語のプロローグ」になる仕掛けも面白いと思います。

地元の人たちが「掘割を守る」意識を持ち続けていることも大きいです。毎年2月の「水落(みずおち)」という時期には、掘割の水を抜いて清掃します。江戸時代から続く伝統行事で、住民総出で泥をさらい、ゴミ拾いをします。観光資源だからというだけではなく、自分たちの生活を守るためにやってるのです。観光のために作られた「物」ではなく、暮らしと一体化した文化だから、簡単には消えないのです。

川下りを通して見える、水と共に生きる覚悟

柳川の川下りは、ただ舟に乗って景色を眺める観光ではありません。そこには、不利な土地で生き抜くために掘割を作り、水と共生してきた人々の歴史が刻まれています。船頭さんの語りを聞きながら掘割を進むと、この町がどれだけ「水」と深く結びついているかが見えてきます。文学も、庭園も、食文化も、すべて水があるから成立しているのです。もし柳川を訪れる機会があるなら、ぜひ川下りを体験してみてください。そして舟を降りた後、掘割沿いを歩いてみてください。きっと、この町が数百年かけて育ててきた「水郷文化」の厚みに触れられるはずです。

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