福岡城跡に天守閣がない理由とは?謎に包まれた歴史の真相

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福岡の中心部、舞鶴公園にそびえる福岡城跡。立派な石垣や櫓が残る一方で、天守閣の姿はありません。実は、この天守閣の存在をめぐっては、長年にわたって論争が続いているんです。「最初から建てられなかった」説と「一度は建てられたが取り壊された」説です。近年発見された史料によって、その真相が少しずつ明らかになってきました。黒田長政が築いた九州最大級の城に、なぜ天守閣がないのか。その謎を紐解いていきましょう。

天守閣は存在しなかった?長年信じられてきた説

福岡城は慶長6年(1601年)から7年の歳月をかけて、黒田長政によって築かれました。関ヶ原の戦いで徳川家康に認められ、52万石という大封を得た黒田家。その威光を示すには十分な規模の城でした。

とはいえ、不思議なことに天守閣がないんです。正確に言えば、天守閣を建てるための「天守台」は存在するのに、その上に建物が建っていた痕跡が見当たらないのです。

長年、この理由として語られてきたのが「幕府への遠慮説」でした。黒田家はもともと豊臣秀吉の家臣です。関ヶ原では東軍についたとはいえ、徳川家からすれば完全に信頼できる譜代大名ではありません。

だから長政は、幕府に対して謙虚な姿勢を示すため、あえて天守閣を建てなかったのではないか。そう考えられてきたわけです。

その根拠となったのが、正保3年(1646年)に描かれた「福博惣絵図」という地図。この絵図には、福岡城の多くの櫓は描かれているものの、天守閣の姿はどこにもありません。築城から約40年後の記録ですが、このことが「天守閣は最初から存在しなかった」という説を裏付ける重要な史料とされてきました。

次々と見つかる「天守閣は存在した」証拠

ただ、近年になって状況が変わってきます。天守閣の存在を示唆する史料が、次々と見つかり始めたんです。

まず注目されたのが、黒田家の家臣が残した書状です。そこには「天守の欄干が腐ったから修理しろ」という記述がありました。欄干があるということは、少なくとも何らかの建物があったことになります。

しかも決定的だったのが、細川家に残された書状です。豊前小倉藩主だった細川忠興が、1620年頃に息子や家臣に宛てた手紙の中に、驚くべき内容が記されていました。「黒田長政が天守閣を取り壊すと語った」「福岡城の石垣や天守を解体して大坂城の資材として運んだらしい」というものでした。

ちなみに、細川家と黒田家は仲が悪かったんです。その理由が面白くて、長政が中津から筑前に移る際、次に入る細川家のために米を残さなかったからだという事なんです。それ以来、細川家は黒田家の動向を詳しく記録していたんです。おかげで、こうした貴重な証言が残ることになりました。

あと2024年12月には、さらに新しい史料も発見されています。1640~50年頃の書状に「天守をお建てになった」という記述があったんです。書いたのは黒田家の家臣で、築城を直接経験した世代から聞いた話を記したと考えられています。福岡市博物館は「信憑性は非常に高い」と評価しているそうです。

天守閣を取り壊した理由は?黒田家の生き残り戦略

では、もし本当に天守閣が建てられていたとして、なぜ取り壊す必要があったのでしょうか。

キーワードは「福島正則」です。元和5年(1619年)、豊臣恩顧の大名だった福島正則が、幕府に無断で城を修繕したとして改易されました。49万8000石から4万5000石へという大幅な減封です。この衝撃的な事件が、黒田家に危機感を抱かせたんです。

黒田長政も豊臣秀吉の子飼いの武将です。関ヶ原で大きな功績を挙げたとはいえ、幕府から見れば警戒対象です。実際、長政は息子への手紙で「幕府は諸大名の行状を吟味しており、10年先には軍事力について詮索を受けるだろう」と書き残しています。すごく用心深いと思います。でも、この慎重さが黒田家を守ったのかもしれません。

ちょうどその頃、幕府は大坂城の再築工事を進めていました。長政はこれをチャンスと捉えたのでしょう。「徳川の世に城は不要。もし攻められても将軍の威光で取り返せる」と秀忠に語り、自ら天守閣を解体して大坂城の資材として提供したと考えられています。

あえて自分の城のシンボルである天守閣を壊す。これは相当な決断だったはずです。とはいえ、黒田家という組織と家臣たちを守るため、長政は天守よりも徳川との関係を優先したわけです。経営者としての判断と言えるかもしれません。

明治の廃城令で失われた福岡城の姿

江戸時代を通じて、天守閣のない姿を保ち続けた福岡城。ですが、城自体は立派なものでした。47もの櫓、10の門。海側から見ると、櫓が立ち並ぶ姿が鶴が舞うように見えたことから「舞鶴城」とも呼ばれていたんです。

こうした建物の多くが失われたのは、明治時代のことです。明治6年(1873年)、政府から「廃城令」が出されました。これは、簡単に言うと「古くなった城をどうするか決めよ」という命令なんですが、福岡城は「存城処分」になりました。

存城処分と聞くと城を保護するのかと思いきや、実際は陸軍の軍事施設として使うという意味です。軍にとって不要な建物は、容赦なく解体されていきました。多くの櫓や門が取り壊されたり、黒田家ゆかりの寺院に移築されたりしたんです。

ただ、幸運だったこともあります。石垣は軍事施設として必要だったため、破壊を免れました。だから今でも、当時の立派な石垣を見ることができるんです。それと「南丸多聞櫓」という櫓だけは、江戸時代からずっと同じ位置に残っています。

国の重要文化財にも指定されていて、福岡城の当時の姿を伝える貴重な存在です。長さ30メートル以上、内部は16の部屋に分かれているという、戦闘を想定した実戦的な造りなんです。

博多区千代の崇福寺には、福岡城の表御門が移築されて残っています。黒田官兵衛や長政のお墓もあるので、興味がある方は訪れてみてはいかがでしょうか。

天守閣復元は実現するのか?

最近、福岡城の天守閣を復元しようという動きが出ています。2024年春には、さくらまつりで「幻の天守閣」を仮設で再現してライトアップしました。これが話題になりました。

福岡商工会議所が2024年9月に行ったアンケートでは、市民の59.1%が復元に「賛成」と答えたそうです。観光の目玉として、また福岡のシンボルとして、天守閣を求める声は確かにあるんです。

とはいえ、実現にはかなり高いハードルがあります。まず、文化庁の許可が必要なことです。福岡城跡は国の史跡ですから、勝手に建物を建てるわけにはいきません。

それから復元するには、設計図や古い写真など「直接的な史料」が必要なんです。これが現時点では見つかっていません。「天守があった」という記述は増えてきましたが、「どんな天守だったか」を示す具体的な資料がないんです。推定で建てるわけにもいかないので、これは大きな問題です。

福岡市は2025年6月から、天守台の本格的な発掘調査を始めました。もしかしたら、天守閣の構造を示す遺構が見つかるかもしれません。あるいは新たな史料が発見される可能性もあります。

個人的には、復元できればそれに越したことはないと思います。ただ、史実に基づかない「想像の天守」を建てるのは違う気もするんです。歴史のロマンと学術的な正確さ、どちらを取るかは難しい選択です。あなたはどう思いますか?

福岡城天守閣の謎、これからの展開に注目

福岡城跡に天守閣がない理由は、長年「最初から建てなかった」とされてきました。ただ近年の研究で、実際には建てられていた可能性が高まっています。黒田長政が徳川幕府への忠誠を示すため、あえて取り壊したという説が有力になっています。明治の廃城令でさらに多くの建物が失われましたが、石垣や一部の櫓は今も残り、当時の面影を伝えています。天守閣復元への期待も高まる中、発掘調査や史料研究が続けられています。福岡のシンボルとして天守閣が蘇る日が来るのか。歴史の謎が解き明かされる瞬間を、見守っていきたいところです。

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